安田工業学校

機械科一期生

 

 

 

 

第1期(昭和1712月卒)工業機械科A組内田 功

 

 

 

 

 

 

 

遅れた機械科への入学

今の安田学園なる学校組織がどうなっているのかは知りませんが、私たちのいた安田工業学校は安田商業学校とはまったく別物で、両校はただ単に同じ校舎の中にあったというだけでした。

商業の存在を意識したことは、ほとんどありませんでした。船橋市の本町小学校の同級生だった安間宏一君が、同時に安田商業へ入ったという個人的な関係ぐらいでした。

知っているのは、商業がA〜Dの4クラスだったのに対して、私たち工業は電気科・建築科・機械科と3科あるにもかかわらず、A・Bの2クラスだったということです。その内訳は、A組が電気・建築・機械の各20名で計60名、B組も同じく60名でした(この編成の問題については後述)。

しかし、そうしたクラス分けは少し後の話であって、実際には私たち安田工業機械科一期生は、認可が間に合わぬとかで、とりあえず夜間部の電気科か何かに入れられて、その1〜2週間後(4月20日頃?)に遅れて機械科へ入学したことを覚えています。

そして入学早々は、この機械科だけのホームルーム的な時間が設けられ、高木先生から安田工業の生徒たる心構えのような話を何回か聞きました。当該教室は114号室、穏やかな空気の流れるような時間でした。

建築科と電気科の両先生からも

安田工業へ入学して驚いたのは、校舎が鉄筋コンクリートの立派な建物であることでした。広い製図室があるのにも驚きました。そして、この校舎を設計したのは建築科の中根先生であることを聞きました。

同先生は年輩の豪傑風の人物で、たしか2年生のときだったと思いますが、私たちA組の代数の授業を担当されました。ちょっと意外な気がしましたが、考えてみれば代数なんてものは、工業の先生にとっては常識の範囲内であることが、すぐ分かりました。

しかし代数といえども一元二次方程式などは結構難しいので、分からないような顔をしている者もおり、業を煮やした中根先生は、こんなもんが分からん奴は、ぶっ殺すぞ、と大きな声で怒鳴る始末です。教壇のすぐ前の机にいる生徒(その中で分からない者)は、同先生の授業時間中はまさに戦々恐々で、見ていて可哀想なくらいでした。

なお当時の並び方は、朝礼の列でも教室の机でも、背の低い者が前で高い者が後ろという決まりになっていました。私は高い方でしたから、いわゆる高みの見物ができたわけです。

一方、代数に対する幾何は小柄な年輩の先生で、お腹が少し大きめでしたから渾名は「ラーポン」でした。幾何の授業はまさに図解そのものであり、したがって幾何の先生は静かで存在感のない方がむしろ良いわけです。皆も静かに聞いておりました。

また2年次には計算尺の授業が導入されました。ちょうど逸見(へんみ)計算尺というメーカーが出来たので、安田でも工業教育の一環として実用的な計算方法を体験させるべく当該教材を導入したもののようです。先生の名前は忘れましたが、小柄で抑揚のある話し方をする電気科の先生でした。

計算尺というものは、対数では掛け算が足し算になることを利用した一種の物指しですから、そうしたことが目に見える教材であることと、さらに計算して出る結果の数字が2桁までで、そうしたことを我慢させられる教材であることが、二つの大きな特徴です。

考えてみれば円周率もπ=3・14で実用的には充分なわけですから、機械的にはぴったりの教材なわけです。この授業で買わされたのは三角函数等もできる多機能型計算尺でした。長さ30p弱の日本ならではの竹製計算尺で、今でも全く狂いがありません。

以上の他に基礎学科として英語(秋保先生)、国語(山崎先生)、地理(武者先生)、博物(橋本先生)、歴史(根本先生)などがあったことは勿論です。また物理(藤原先生)と化学(森島先生)は、いずれも物理学校出の先生でした。

両先生ともいわゆる立て板に水の名調子で、こんな難しいこと(術語や記号は私たち1〜2年次の生徒には初めての言葉)をよくすらすら説明できるなあと思うばかりでした。それだけに印象希薄なのが逆にいえば欠点なのかも知れません。

機械科の原点は1〜2年次から

ただし機械科としては上述の基礎学科以外に、この1〜2年次にも実習がありました。それが原点だったと思います。普通校舎とは別の、講堂に隣接した武道館(2階)の下部に広い実習工場(1階)があり、そこには多数の万力台があって、いわゆるヤスリがけやタガネ・ハンマーによるハツリ仕事の手作業が行われました。いずれも気合いを入れてやらないとできない作業でした。

ここで私たちの鉄との触れ合いが始まったわけです。ヤスリがけの教材は丸棒から六角形の火箸を作るような、あまり面白くないものでした。そこで級友の中には先生の目を盗んで、小さな自動車などを作って自慢している者もおりました。実習工場には旋盤、フライス盤、ボール盤などの一通りの工作機械も備えてあり、作業員がいつも何かを作っておりました。これらの機械はみな天井にしつらえたプーリーから動力をとるベルト掛けのものであって、今にして思えば安田工業の原風景となっています。

実習の担当は菅沼潔先生で、きりっとした頼もしい方でした。同先生とは卒業後(戦後)に吉野梅郷で偶然お会いしましたが、安田時代と変わらぬ姿でした。向こうから声を掛けられて当時に戻ったような感じとなりました。菅沼製作所という機械工場を自営されていた頃だと思います。

たかが組分け、されど組分け

以上のように機械科といっても1〜2年次の授業は普通学科のみで、したがって学級も電気科・建築科・機械科と一緒のA・Bの2クラスでした。その内訳はA組が電気・建築・機械の各20名で計60名、B組も同じく60名でした。ただし1〜2年次にも機械科だけのA・B横断のホームルーム的なクラスがあり、その担当は高木先生でした。

それが3年次になると機械科の主任として伊藤武三郎先生が来られ、さらに横浜高工出の若い野上先生も来られて、授業はこの両先生による専門学科が始まり、それをA組・B組の枠を外した機械科40名が一緒に受けるという形になりました。

しかし他にもA組・B組の形でそれぞれが受ける公民や修身などの普通学科も少しはありましたから、完全に電気・建築・機械の級友が別れてしまったというわけでもありません。

したがって私たち機械科A組の20名から見ると、同じA組の電気科・建築科の各20名の級友とは親しくなれず(科が違うという垣根のため)、また機械科B組の級友とも親しくなれず(組が違うという垣根のため)、そのために私たち機械科A組のほんとうの級友は20名だけといった状態でした。

そして星移り年変わりで、私たち機械科A組はクラス会も開けぬ一生となってしまいました。機械科B組のことは知りません。電気科や建築科のことも知りません。当事者も知らなかった、中等実業学校の組分けの難しさだと思います。たかが組分け、されど組分け、と言わざるを得ません。

儚かった機械科実習工場

たしか昭和15年の3年次のときだったと思いますが、深川の猿枝町に機械科の実習工場(木造)が出来て、週1回はそこへ通うことになりました。実習用の工作機械も置かれて、私たちも旋盤実習などをやりました。工作機械はみな電動機直結のものばかりです。工場の敷地も広く、その日は実習が大部分なので、開放感のある楽しい生活でした。

そこでの実習の担当は背の高い中年の先生でしたが、新たに若い小柄な八幡先生が見えたのは、同工場の管理者としての役目(宿泊しての勤務)があったからだと思います。実習のほかに同工場に設けられた教室での授業もあったような気がしますが、その点の記憶は定かでありません。やはり学科はなかったと思います。いわゆる雲煙ひょうびょうという感じです。

この機械科の実習工場は昭和20年3月の東京大空襲で焼失したはずですけれど、私が安田工業を卒業した後のことですから、直接的には知りません。思えば儚い運命の工場でした。

旅行と競歩大会

話は戻りますが、学校行事としての旅行は、1年次が東武東上線で行く玉淀(埼玉県寄居町)、2年次が東海汽船で行く大島でした。3年次になると日本の風雲が急を告げてきたため、時局即応の競歩大会となりました。

大島行きでは船酔いしないために、乗る前に何も食べない方がよいと言われました。そうしたら大島に着いたとたんに歩けなくなってしまい、三原山へ登るどころではありませんでした。原因は腹ぺこです。幸い(?)それは私一人でしたから、先生方と一緒に来られた配属将校の鈴木中尉(私服姿です)におんぶしてもらいました。鈴木中尉の温顔と共に、今も忘れられない思い出になっています。

競歩大会は安田工業全体でやったものですけれど、1〜2年生には無理なので、3年生以上でやったと思います。出発点は明治神宮で、ずっと甲州街道を歩いて、到着点は多摩御陵という約42キロのコースです。

途中、水分補給などのため府中に休憩所が設けられましたが、歩破時間を競う行事ですから、ゆっくり休むわけには参りません。結果は先頭が3時間、中間が6時間、後端が9時間と言った見当でした。途中で落伍する人もいました。機械科A組の佐藤浩君がトップでした。

競歩という競技はマラソンではありません。マラソンならば無意識で走れるけれども、競歩というものは即ち歩かなければ、という頑張り精神がものを言う競技です。

トップたる人は自らの中に生まれつき頑張り精神を持っていますが、普通の人は自分一人ではなかなか頑張ろうという気持ちになれません。仲間2〜3人で励まし合って歩く必要がある所以です。中間6時間というのはこの層です。私もそうでした。後端の9時間というのは頑張り精神を持たずに歩いたのだと思います。完歩したのは立派ですが・・・。

実弾射撃・野外訓練・実践演習

3年次に入ると学校教練が大きな三八式歩兵銃を担いでの執銃訓練になりました。まだ子供時代を脱していない身体なのに、大人でさえ重い小銃(約4キロ)を担がされるわけです。いうならば国家権力による強制ですけれど、とにかく一所懸命でした。

執銃訓練の一環として、陸軍の戸山ヶ原射撃場(今の新宿区)において実弾射撃を行ったことがあります。約百m先の丸い的に5発撃って50点満点というルールでした。B組の鄭君(その後退学)が41点で1番で、A組の私は34点で2番になりました。

機械科A・Bの級友の中で大部分の人は10点に届きませんでした。この射撃場で改めて三八式歩兵銃の優秀なこと(大きくて重いから射撃性能が良い)を実感した次第です。軍事教練ならではの貴重な体験でした。

旅行がなくなった代わりに、3年次以降は完全武装による野外訓練や実戦演習が代々木練兵場、習志野ヶ原、富士の裾野などで行われました。後二者は野外の木造バラック兵舎での泊まり込み体験をも兼ねての訓練と演習です。

食事もブリキのバケツで運ぶ大雑把な野戦食でしたが、とにかく食べないことには身体が持たないので夢中になって食べました。今でいうカルチャーショックを体験させられたわけです。級友の名前を呼び捨てにする習慣になった(苗字のみ)のも、その当時からでした。

誰が撮ったのかは知りませんが、卒業時に配られた機械科級友の写真は教練服姿のものが大部分です。これを見ると学校教練の教育効果は、当該教育の目的たる規律性と団結性を養うという点のみならず、心理的にも級友間の結びつきを深めるという点で慮外の効果があったわけで、その点で見ると今日の野球の比ではありません。

野球のようなスポーツは、いわば選手だけのスポーツだからです。学校教練に代わる今日的な方法はないものでしょうか。少なくとも野球一辺倒の呪縛を捨てることが肝要だと思います。さすれば良いプランは必ず出てくると思います。

末筆となりましたが、以上の学校教練で指導を受けた配属将校は、若手の鈴木中尉(前出)・塚田中尉のほかベテランの大川准尉でした。爾後70年を経た今日でも、学校教練にまつわる出来事は、ほんの少し前のような感じで脳裏に浮かんで来ます。そもそも学業とは異質の軍事教練だったからだと思うのです。これも慮外の教育効果だと思います。

三角方程式で開眼

昭和1612月8日の大東亜戦争勃発は4年次でしたが、特に学校生活において変わったことはありませんでした。しかし5年次の昭和17年は大東亜戦争の2年目のため、急きょ同年12月に繰り上げ卒業となりました。

ただ私たち上級学校へ行くものは、あと3月(昭和18年1〜3月)は学校でぶらぶらしていることになり(電気・建築・機械とも)、その間の補習授業として電気科の若手の先生(菊地先生?)が、ちょっと三角方程式を講義してくれました。

たぶん先生自身がやりたかったのだと思います。三角函数なんてのは計算するだけのものと思っていましたから、それが代数方程式のように扱えることを知ったのは驚きでした。微積分以前の数学ですから理解も容易でした。

いわゆる実業教育の中の数学でも、定型的な代数・幾何・三角のみに終始することなく、時に応じてはより高い水準のものをやるべきだと思いました。東京物理学校(現東京理科大学)__への開眼でした。