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私と音楽 |
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〜ギターと共に〜 |
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昭和16年工業学校電気科卒 田中 稔 |
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昭和16年(太平洋戦争開始の年)、安田を卒業した私は、学校の推薦で蒲田の東京計器製作所に入社して、設計課探照灯設計係に配属されたのでした。其れが戦争での悲惨な経験もなく、今日まで生きてこられた幸運の始まりだとは知る由も無かったのです。 同社は船舶の自動操舵装置等、航海計器の大手メーカーですが、そこには安田工業電気第一回卒の井田哲郎氏、佐藤氏等諸先輩が居られて、心強く感じたものです。 設計課に居られた関実(せきみのる)さんに勧められハーモニカ合奏団に入り、初めてハーモニカの楽譜(オタマジャクシではなく、123…の略譜)を教わり2ndハーモニカのパートを受け持ちする事になり、「ドナウ川の漣」等を演奏し、合奏の楽しさを初めて体験することが出来ました。 その後、関さんから本譜も教えて頂き、川崎の新丸子に探照灯の部門だけの工場に転属になり、当時戦意高揚の為の吹奏楽団の結成に参加し、ピッコロのパートを担当しました。 軍隊には、19年の徴兵検査から1年以上遅れの20年8月1日の入隊となりました。兵器の設計に携わった関係で入隊が延びたことは戦後に分かった事ですが、19年に入隊していれば外地に行ったかも知れないのです。 15日間の軍隊生活?を終えて、これまた幸運にも3月10日の大空襲に奇跡的に焼け残った向島の我が家に8月18日に帰る事が出来ました。終戦後長野県上田近郊の伯母の家に行った時、従兄姉達がマンドリン、ギター、カスタネット等で合奏しており、そこで初めてギターに触れることが出来たのです。 勤務先の工場も何とか民需に転換しようとして居ましたが、2年位で退社し、知人の勧めで小岩の製缶工場のパン焼き釜販売子会社に就職しました。当時は家庭での電気パン焼き等が盛んな為、愛知県常滑で作った素焼きのパン焼き釜の販売に従事する事になり、伊勢丹の店頭で実演販売等を行ったものです。なんともおかしな話ですが、当時は真面目に努力したものです。 最初のギターは、確か銀座の十字屋楽器店で買った手工ギターだったと思いますが、ギターを手にして独学で勉強していました。勤務先の小岩にギター教室があるということで、初めて専門の先生に教わることになったのです。 その後、カルカッシ教則本で本格的なクラシックの指導をして頂いたのですが、先生の急逝で教室は終わりましたが、折から古賀先生作曲・近江俊郎さんの「湯の町エレジー」が大流行となり、ギターをクラシック畑から一変に大衆化したものです。当時はカラオケ等はありませんから、音はレコードか生(なま)で聞くしかありません。古賀政男全集等を買って弾いたものです。 川口に転居して昭和音楽院石井先生の「ギター友の会」へ加入し、ギター合奏の楽しさを満喫し、又石井先生指導の「シルバーフラワーズ女性合唱団」のお手伝いをしているうち、先生からカラオケの指導をしてもらえないかとお話しがあり(クラシック畑の先生はカラオケで歌えなかったのです)、生徒さんを集めてカラオケ教室を始めました。それがカラオケ教授の第一歩だったのです。 自分ではそういう才能は無いと思って居りましたが、判らなくても楽譜を見て歌う習慣を着ける事で歌を正確に歌うことを指導してきたのが、割合好評を頂いたのではないかと思っています。 カラオケ教室2カ所の他に大正琴グループのバック演奏をアコーデオン、バイオリン等と演奏して楽しんだり、老人ホーム慰問演奏に行く等、ギターは私の生き甲斐で感謝の気持ちで充実した毎日を送っております。 |
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