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学園訓「今日一日の事」を旨に 悔しさをバネに生きぬいた人生 |
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錣山親方 講演要旨 |
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安田のOB会の皆様、こんにちは。ただいまご紹介を受けました元寺尾の錣山であります。安田学園には昭和53年に入学をさせていただきました。そして昭和54年に志半ばということで中退をして、そのまま大相撲の世界に身を委ねました。 私は、鹿児島県出身とよく言われていたんですけれども、本当に安田学園と同じ町内で、横網2の10というところでこの世に生を受けました。 父親は鹿児島県出身の元関脇鶴ヶ峰、母親は東京の相撲の御茶屋の娘ということで、相撲一家に生まれました。兄は十両までいった鶴嶺山、次兄は関脇までいった逆鉾、そして三男が私寺尾であります。父親がちょうど最後の予科練生という年代だったものですから、子どもに対して非常に厳しいしつけをしていました。 中学から高校へいくというとき、担任と相談して、どこか行く高校ありませんかと言ったら、私本名福薗と言うんですけれども、福薗君は内申書が学校で一番悪いから、公立は満点取っても多分だめだと思うよと。高校で浪人なのか、それともこのまま無理やり相撲界に入れられてしまうのかなということを考えていたときに、たまたま子どものときからの幼なじみのお兄ちゃんが、ちょうど安田学園の相撲部にいたんですね。そして、おまえ来ないかと。 当時は明大中野、若乃花、貴乃花が行っていた明大中野が、全国制覇をするような強さを誇っていたんですけれども、安田の相撲部も予選では明大中野に惜しくも負けるんですけれども、多分全国大会に出ると、ベスト4とか、先輩たちも個人でベスト8に入るような、そんな先輩たちもいましたので、東京では万年2位ですけれども、相撲部としてのレベルは全国クラスだった。私は父親が経験者ということで来ただけなんですが、身長は相撲部で一番高かったんですけれども、体重は下から2番目ですね。そんな体の男が、相撲経験のある同級生、当時同級生7人いたんですけれども、その同級生たちと一緒に稽古をすると、勝てないわけですね。勝っても、たまに小さいやつにちょっと勝つとかです。 家の商売が相撲。父がお相撲さん、そして兄二人とももうお相撲さんになっていると。その息子が一番弱いというのは、恥ずかしいことだなと。そのときに生まれてはじめて悔しいなと、負けたくないという気持ちが沸いてきまして、とにかく体をつくってやつらに追いつかないといけないということを思って、メチャメチャ食べて大きくしました。 そしてさあこれからという、昭和54年の5月20日に母親が亡くなりまして、そして父親も兄もみんな地方場所に行くときには東京にいないわけですから、一人で東京で学校に通うというのは無理だよということになり、周りの人が、じゃあおまえも相撲界へ行けと言ってくださいまして、一番難関の父親に話に行ったら、その後、それ以上のいい笑顔を見たことがないくらいの顔をして、そうか、じゃあ明日学校に説明してこいということで私は安田学園を中退して相撲界に行くことになりました。 ただ、3年間全うできなかったということがあります。きちんと卒業された方に失礼かもしれませんけれども、自分の中でこの安田に来たことによって、1つすごく勉強にさせていただいたのが、「今日一日の事」という、安田の校訓のようなものですけれども、自分の中でいろいろ考えまして、「今日一日の努力」ということを色紙にも書かせていただいているんです。これは安田善次郎がつくった校訓だと思うんですけれども、今でも安田に在籍したということが、本当にすばらしい財産になっていると思いますので、この場をお借りしまして、御礼を申し上げたいと思います。 そしてやがて幕内に上がって、三役というのが目標だったんですけれども、平成元年、ちょうど昭和天皇が崩御された場所だったんですけれども、そこで東の筆頭で勝ち越すことができまして、次の場所関脇に上がるということになりました。その後2年ちょっとですか、平成元年の3月から平成3年の5月ぐらいまではずっと三役に定着させていただきまして、自分ではそのとき全盛期だったと思います。そのときに、有名な兄弟が駆け上がるように自分たちのほうに上がってきた。それが若乃花、貴乃花、当時若花田、貴花田ですけれども、貴花田がちょっと出世が早くて平成3年の3月場所に自分は貴花田と相撲を取ることになったんです。向こうは幕内の下のほうで、初日から10連勝。そして私は小結で6勝4敗と。一生懸命自分の得意な突っ張りとか駆使したんですけれど、向こうはまわしをとって取る相撲なのに、僕の得意技の突っ張りで貴花田に私が土俵下まで突き飛ばされてしまいました。 貴花田に負けて、夜も眠れない。まだ場所が残り4日間あるんですけれど、稽古もしたくない。土俵上がって相手見ても気合いも入らないという日が2日間続いたら、うちの鬼のような親父が思いっきり自分の顔面を殴りまして、おまえあと2日間あるんだろうと。今度当たって勝てばいいだろうと。それでゴーンと殴られてやっと目が覚めました。 それで辞める前も、貴乃花は横綱で、僕は十両の11枚目だったんですが、それで千秋楽に引退するんですけれども、本当に悔しい思いの繰り返しで、だから今考えると、悔しい思いをさせてくれた人にものすごい感謝をしますし、その悔しさに向かっていけた自分もまあまあよかったのかなというような感じがします。 だから、私今弟子を23人抱えているんですけれども、言葉づかいは悪いですけれども、とにかく稽古場で自分に怒鳴られて、若い衆がこの野郎と、師匠に対してこの野郎と心の中で思って、悔しいなと思うような指導の仕方をしています。こんな気の弱い私でも、1つ1つ乗り越えて、今こうやって生意気にも皆様の前でお話ができるような立場になったと思っているので、もし皆様、これから人を指導する皆様だと思いますけれども、悔しさを教えるというのは、とっても大事なことではないかと私のたった46年の経験ですけれども、これが皆様の中で少しでも役に立てば、ありがたいことだと思います。(了) 元関脇 寺尾 錣山 矩幸 (しころやま つねゆき) 本 名/福薗好文 出身地/東京 生年月日/1963.2.2 サイズ/身長186cm 体重105kg 所 属/(財)日本相撲協会 記者クラブ 錣山部屋 昭和54年7月/井筒部屋入門 初土俵 昭和59年7月/新十両 昭和60年3月/新入幕 平成元年3月/新三役 平成14年9月/引退 平成15年5月/国技館にて断髪式 |
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