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安田学園相撲部の仲間達 |
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相撲部を設立したのが約三十七年前、残念ながら、裸でふんどしひとつになる相撲が生徒に嫌われたせいもあり、二十八年後には相撲部が休部になってしまった。したがって、本年十月十四日のOB会でも新卒の若いぴちぴちしたOBはいないが、三十一名の素晴らしい仲間が集まった。宴席を見回しても三分の一の顔がわからない、私も年老いたなぁと思いつつ、うれしさ、懐かしさ、寂しさを感じながら相撲部設立当初の思い出話に楽しい時間をすごさせてもらった。ここでは、その思い出話を二、三、書くことにしようと思う。私は安田学園に生徒として入学した当初から、なんで両国の地に相撲部が無いのだろうとずっと思っていたのだが、三十歳代半ばになり一層この思いが強くなってきた。ちょうどその折良いタイミングで、普通科に大相撲・朝日山部屋の息子の楠田が在籍しているのに気づいた。そこで、チャンス到来とばかり相撲部を設立しようと、当時の須賀教頭先生にお願いしてどうにか旗揚げができた。しかし、土俵が無い(土俵は震災記念堂の砂利の上で、とてもではないが稽古にはならなかった)、部員はいない(部員は当時、柔道部に仮称、柔道部相撲班というのがあり相撲好きの生徒を借りうけた)、相撲のノウハウが無い(どうやって稽古をしてよいかわからない)など、ないない尽くしで、わずか二、三名の生徒からの出発であり、今考えると無謀に近かった。その当時、現状を見かねてか、朝日山部屋からうちの部屋で稽古をしてはとの話があり、放課後になると朝日山部屋に出かけては、親方自らまわしの締め方、稽古の方法等を教えていただいた。稽古では部屋の若者、開隆山等から直接教わったこともあった。昭和五十年が初めての関東大会出場であった。東京大会で五位となり何もわからないままに大会の出場が決まり、山梨県の日川高校での試合に臨んだ。私は前日に行う監督会議というものを全く知らず欠席、幸いにも高体連の先生方の好意で出場することができたが、次なる難問が発生した。試合に出るためのゼッケンというものが無い。他校の生徒のものを見ると、学校名を染め抜いた布をまわしにつけているではないか、あわてて洋品店に行きハンカチを購入し、「安田学園」とマジックインキで書きその場をクリアー。この大会では、個人戦・軽量級で伊藤が準優勝を飾った事を覚えている。その後、墨田区に相撲連盟なるものがあることを知り、相撲のノウハウを教えてもらい、本格的に相撲部として発展していった。師範の菊池先生をはじめ、コーチの井坂さん等の全面的な協力をいただき、一時は十六名もの部員がいて放課後稽古に励んでいた。雨が降ると校庭では稽古が出来ないので、旧本館三階商業科職員室前の廊下が稽古場となり、部員の股割の悲鳴が校舎中に響きわたり、ひとつの名物となっていたほどである。それから暫くの間は相撲部の黄金時代が続き、阿久津、宮崎、嶋津、一星など東京を代表する生徒が多数いた。安田はインター杯の団体戦には残念ながら出場することは出来なかったが、個人戦には東京都の代表としてこれらの生徒が出場して活躍している。また、青森県の十和田市で行われる十和田大会には、二、三年連続出場し、おなじみになった東京の安田学園に大勢の東京びいきの観客から声援をもらい、楽しい一時を過ごさせてもらった。また、正月に高知市で行われる高知大会も思い出深いものがあった。成績はベスト八だったと思うが、それよりも、当時一年生だった福薗(現錣山親方)を補欠で連れて行き、試合に出場させなかった。よっぽど当人は出場したかったらしく、いまだに、なぜ出してくれなかったのかと言われ続けている。この頃が第二期黄金時代で小林、石谷、押久保、常光、古谷、猪狩等の猛者を輩出し、常に関東大会での出場常連校と言われていた事を思い出す。紙面の関係で、まだまだ多くのOBの諸君のエピソードが頭をよぎるが、次回にまわすことにしたい。最後に、このOB会を契機に相撲部の再興を願うものである。 森田 光 |
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