横網・昭和13年 商16回 水谷武一(81歳)

 

 

 

昭和13年5月 秩父の長静にて 1年D組の遠足 左端は昭和19年7月にマリアナ群島テニアン島での米軍との戦闘で戦死なされた担任の内田近建先生(陸軍中佐です)

 

 

 

 

 

○中等学校へ

東京都の下町にも当時からそろそろ普通教育として中等学校への進学が普及して来た。

それまでは殆ど全員が尋常小学校を卒業したあと二年生の尋常高等小学校を経てから親の家業の商売や職人の後継ぎになったり、商店の店員や工場の行員等に進むのが一般的傾向だったが、ボツボツ旧制の中学・商業・工業等の中等学校に進学する児童が出てきた。

小学校での私のクラスは男子六十人程だったが中等学校に進んだのは十二・三人だった。

下町の小商人こあきんどの倅だった私も親の商売を継ぐツモリで読み書きそろばんを習うため商業学校に進むことになった。
受験にあたり公立校並に月謝が安くて徒歩で通える学校として安田商業を選んだ。月謝の六円は五年間変わらなかったのは安田財閥の後ろ盾があったと聞いた。なんとか低空飛行や滑降を繰り返して五年生になったが、戦時下の労働力増強の為、実業学校は卒業を三ヶ月繰り上げることとなり、昭和十七年十二月の卒業なった。
卒業生の三分の一が自営、三分の一が進学で残りが就職組だった。進学組は後の三ヶ月を補習の為以前と同じように通学した。もっとも補習に通ったものの入学できずに学校に就職を依頼した者もいた。卒業式には当時の安田財閥の持ち株会社である安田保善社の重鎮の方々が見えられ、私が入った会社で数年後に社長になられ方もなかに居られた。私も自営の予定だったが戦争の為
商売ができなくなったので学校に就職をお願いした所、亀有に工場のある製紙会社に入れてもらった。

この時には私の他にも二名の同期生が採用されたが、この会社には以前から毎年のように生徒が入社している。建学以来、就職希望のうちから多数の者が安田銀行(現みずほ銀行)を中核とする安田財閥直轄の殆どの銀行や事業会社に送り込まれており、校祖安田善次郎翁の「社会に役立つ有益な人材の育成」と言う学校の目的が具現している。入社してからこの会社は安田財閥直系の事業会社で、工場が全国各地にある東証一部上場の業界の名門と知った。月給は全国一律に中等学校卒は四十二円だったが初めてのボーナスは六ヶ月分で二百四十円も頂いた。当時一戸建ての家一軒の値段が三千円だったその頃、ボーナスは本社の重役は三千円以上、私達職員は六ヶ月、現場の職長クラスで日給十日分、工員はゼロとその格差の大きいのには、サラリーマンの世界を知らない下町育ちの私には大きな驚きだった。(私事ですがこの会社に定年まで四十年勤め、その後も関係会社で二十余年にわたりお世話になりました。)

○軍事教練

大正の末、軍縮の為陸軍四個師団が廃止され、その為多数の陸軍軍人が今で言うリストラされた。国にはその再就職先として、大正十四年から中等学校以上に将校・下士官を派遣する事により予備兵力の増強、つまり学校の軍隊化と当時澎湃として起こってきた学生の共産主義思想の取締を図った。「配属将校」として最初は会社の部長クラスに当る聨隊長級の大佐が見えられたが、支那事変・大東亜戦争と戦争が激しくなるに従い高級指揮官の不足から課長クラスの中尉少尉にかわっていった。配属将校とは別に会社の係長クラスに該当する准尉や軍曹等のご年輩の准士官や下士官の方々が直接われわれを指導なさった。この中には故石井弘司校長のご父君も居られた。これらの方々は生粋の日本陸軍の軍人だったが軍服の下には生徒を可愛がるご立派な教育者としての皆さんだった。一年生の時には校庭のほか代々木にあった練兵場で兵士としての基本動作を教えられた。校外での訓練の時は弁当を黒い背負い袋に入れ、武者修行の侍のように背中から脇の下にかけて背負ったものである。三年生からは三八式歩兵銃、軽機関銃、手榴弾を遠方に飛ばす擲彈筒、帯剣、背嚢、弾薬盒等の兵器を扱わされた。上級生になると三乃至四日にわたり陸軍の習志野、下志津、富士の裾野演習場等でしごかれた。しかし、遠距離行軍の時はマメを予防する為靴下を裏返しして石鹸を塗って履くとか、水は飲まないで喉を潤す方が疲れないとか、後に兵役に服した際にとても参考になることが多かった。

○図書室・購買部

最初に本の書名の入ったカードの箱から読みたい本を捜し、申込用紙にナンバーと書名を記入して窓口に出すと係りの生徒が出してくれた。自宅への貸し出しは土曜だけで月曜には返した。また購買部があり、算盤や帳簿に線を引く時の簿記棒(直径四×長三十センチの木製の移動式定規で転がしながら引く)等の学用品を廉価で部員の生徒が売っていた。

○遠足

一年生で始めての遠足写真は秩父の長瀞・玉淀だったが五年生の修学旅行は日光で、線路が戦争の為、供出されて無くなったケーブルカーの道を登り、いろは坂を串刺しにして降りた。

○持ち物検査

初秋の肌寒い頃、時折全校生徒を朝礼の時に上半身裸にしてタバコなどあるかどうかポケットや鞄の中まで曝け出して検査された。

○両国駅と蔵前橋

毎年暮れになると両国駅の日通で日給一円のアルバイトがあったが、昭和十六年からは勤労奉仕の一環として無料での奉仕が強制された。蔵前橋の上で一銭の紅白の大福を火鉢の上で焼きながら売っていたが、買うのが恥ずかしく、とうとう食べ損ねた。以前、蔵前国技館のあった西の橋詰めに二メートル四方のコンクリの桝があり、そこから布製の長い袋が川面まで垂れている。その袋の先には荷受の平たい達磨船が停泊している。そこへ下町の汲み取り便所から直径五十×高さ七十センチ程の(勿論フタはしてあるが)に汲んだ内容物を山積みにした馬車や牛車が寄ってきて、運んできた物品を桝に明け袋を通して船に移し替える。船はこれを東京湾に撒くため隅田川を下って行なったが、今でも蔵前橋を通るとき、その光景を思い出す。