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同窓会報を読んでいる時に、「寄稿のお願い」欄が目に留まった。80歳を過ぎたいま、中高時代に体験していた事柄を思い起こしてみたら、どのように心に映るのか、自分でも少し興味があり書き進めてみた。
テレビを組み立てていた笠原先生
昭和24年春のこと。入学がきまり、さてこれから通学となると、学校・校舎・同級生・先生との出会いが、新たな関心として高まった。
校舎の様子は「安田学園70年史」に詳述されているので、ここではその辺りは割愛する。当時は先生方も戦後間もない頃であり、学園で教鞭をとるまでには、種々の事情があっただろうし、世相もいまだ落ち着かず、また誰もそれらを問うような余裕すらなかった。
中学で担任の笠原美三先生もそんな一人であった。終戦時陸軍士官学校の最高学年だったと言われていたが、詳しいことは知らない。実家はお寺さんだとも伝え聞いた。学園では我々中学のクラス担任を務めたほか、高校では「電気」を教えていた。
テレビジョンがまだ一般には普及していない頃であったが、先生が校舎の一角でその組み立てをしていたのを、我々は垣間見ていた。そんな先生だったが、よく口にしていたのは「君たちが中学を卒業するまでは学校にいるから」であった。
しかし、その中に「いずれは転職」といった含意のあることを、自分達は感知できずにいた。笠原先生は我々が中学を卒業してから程なく、住友金属工業に移られ、その後は同社の副社長にまで昇進された。
思い出に残る諸先生
・森 孜 先生
高校でのクラス担任。当時では珍しい坊主頭。声を荒げて怒られた記憶はない。教科は国語だが、歌舞伎・芝居が好きで、演劇指導にも力を入れていた。
・中 保 先生
体育の先生。よく怒るといった印象が強い。静岡県藤枝市出身。私自身も疎開で同市にいたせいか、ヒイキをしてくれていたように思う。
・大月 静雄 先生
音楽の先生。風貌・振る舞いは別格。一人淡々と授業をしていた。
・所 栄次 先生
美術の先生。寡黙な方だったが、今でも一番記憶に残っているのは、新宿御苑が一般に開放されて間もない頃、上級生数人と先生で写生に連れて行ってもらったことである。自分では絵が上手いとは少しも思っていなかったが、その後「絵を描く」ことが、私自身のライフワークにまでなったことを考え合わせると、不思議なご縁であった思う。
・須賀 最 先生
直接授業を受けることは少なかったが、先生は構内をよく見まわっておられ、いつも慈愛に満ちた笑顔で生徒への目配りをされていたのが印象に残っている。私事では進学・就職の件で相談に乗って頂き、今でも感謝の気持ちで一杯である。
奇縁、親子ともども同級生
安田学園在校中には、奇縁ともいうべき出会いを体験した。中学に入学して暫くしてのこと、同級生「江坂光守」君との不思議な縁だ。彼は成績が良いこともあって、帰宅後の我が家で、よく私の話題の中に登場していた。するとある時、父が「俺にも岡崎商業の同級生に、江坂というのがいた」と言い出した。苗字も珍しいので記憶にあったのだろう。翌日早速彼に、父から聞いたフルネームが江坂君のご父君のものかと問うと、彼は「そうだ」と答えた。愛知県岡崎市の岡崎商業学校での二人の出会いが、ほぼ50年過ぎた時点で、互いの息子同士が東京の中学校で偶然同級生になったという、極めて稀な出会いを体験したのだ。双方の父親は共に、明治25年生まれの岡崎商業一期生。
各自が椅子を抱えて大行進
卒業があと数か月後に迫った頃、GHQから横網校舎の返還が決まった。残りの在籍日数は限られたものであったが、その時は「本校舎に入れるので嬉しい」といった幸福感で一杯だった。
敗戦間もない昭和20年10月、安田の横網校舎はGHQによって接収された。校舎を失った安田は、柳島小学校で2年、戦災で廃校になった横川小学校で7年、併せて9年間も、仮校舎での仮住まいを余儀なくされた。待ちわびた校舎接収解除の公式文書が、安田に届いたのは昭和29年7月。そして創立31周年の記念日にあたる同年11月9日、遂に生徒・職員の全員が懐かしい横網校舎への帰還を果たすことになったのである。
「今いる校舎は仮校舎」と了解しつつ、見たこともない本校舎には、胸一杯の夢を描いていた。全校生徒が各自の椅子を両手で抱え、横川小から横網の本校舎まで街中を堂々の大行進。そのときの姿は今でも目に焼き付いて離れない。
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