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「街おこし」郵便局と私 |
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昭和41年普通科卒 丸山 善太郎 |
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かつて田園風景の中に日光街道第二の宿場として栄えた草加の旧市街は日本橋から十八キロの道程ゆえ首都圏の流通経済の一端を担って栄えてきた。名物となった「草加せんべい」に係わる業者も多くその原料米を扱う米穀商も多く構えていた。その街の中心、住吉町で米穀商を営む商家に私は生まれ育った。地元の小学校から安田学園中学・高等学校へ進学。自宅から両国までの片道一時間の車窓より見る都市化の波で移り変わってゆく様子が今になってみると私に大きなインパクトを与えてくれた。昭和三〇年代より始まった高度経済成長当時は当店の向かい側に第二種大型店舗の「フジヤデパート」を中心に繁盛していた商店街も相次ぐ大型店の出店に圧倒され、閉店する店舗が多くなり、マンション街化しつつあった。商店会の仲間たちは未来図が描きにくいことから転廃業を考えざるを得なくなり、私も米穀、特にせんべい原料米の卸部門の売上減少が続き将来に不安を覚えて対策を熟考せざるを得なかった。幸いにも大学卒業と同時に兼業として父からすすめられて始めた東京海上火災保険の代理店業の売上高が七年後には米店の売上高を超えてしまった。これには妻の協力が大きかった。私は常づね、駅通りより北側には経済活動の源である銀行が皆無なのが商店街にとって弱点であると思い、機会のある度に銀行や信用金庫の役員の方に支店の開設をお願いしたが良い返事をもらえないのが常であった。そこで銀行が駄目なら郵便局が銀行業務を兼ねている事に気付き商店街の皆さんに話を持ちかけたが設置運動に協力する者もいなかった。街の再発展のための街づくりと、自分の力で郵便局を開設できないかと考え家族の承諾を得ると早速、行動を起こした。幸い旧知の仲である三郷彦成局長の恩田氏の協力を約し、指導して下さる事になったのは平成六年のことである。当時の郵便局は郵政省が管轄し、まるで役所の支所を私設で創るような感じで何処から手をつけたらよいか全く判らなかった。恩田氏から新局の設置と局長の任官という二つの柱で行動を起こす事を確約、具体的な手順を指導していただいた。新局の設置は関東郵政局が窓口で局の立地と最寄り局との距離問題をクリアし、局長任官の件は人事課が担当である。任官は申請者である私が前提であるので早速、三郷彦成局に見習実習に出掛けることになり、自宅に帰ると大学受験なみの勉強に取り組む。四十七歳になっての学習は辛いものがあった。まして、四十八歳が局長任官のリミットという条件が、プレッシャーとなった。二度目の試験で合格したものの面接時に「任官が少し遅かったネ」と言われた事が後々まで気になった。平成八年、開設許可がおりた。早速、局の名称を決めることになり私は迷うことなく「草加宿郵便局」と名付けて申請した処、「何ですか草加宿というのは」と問われたので、かつての草加宿の本陣に開設するからですと答えた。するとそんな名称だと新住民には理解できないと言われた。一日も早く開局したい私はどのような名称が通常は採用されるのですかと問うと、「草加住吉」と地名を採るのが良いという。止むを得ず妥協してしまったのである。今となっては口惜しい話であるが、当時はまだ街おこし運動は盛んでなかったので仕方なかったと思う。当時の家は昭和四十三年に父が建てた重量鉄骨二階建の店舗併用住宅であったのを、改造して活用しようと諸条件を検討した処、新築した方が早く、しかも耐久性と外観美を考え、結局は新築する事になった。内実を話すと解体工事、新築費用を合わせると一億円超の大工事となり、自己資金と借入金を充当することになった。幸い銀行が快諾してくれて順調に新築工事が進行した。平成八年三月二十八日、開局式を草加駅前のアコスホールに二五〇名の参加者を招き挙行し、翌日に「草加住吉郵便局」の名称で開局する運びとなった。局長席に腰を下ろした瞬間、発案から開局までの労苦とともに充足した感情が心の底から涌き溢れてくるのを覚えたと同時に、事業遂行の過程で多くの方々の協力と指導を仰いだことに思いをめぐらした。そして自ら地域の役に立つ局でありたいと念じたものであった。早いもので開局して十六年を迎えた。この間、お客様の来店数は一五〇〇名を超えた時もある。平成十七年六月私は退官し、現在二代目局長として娘婿の梅村が継いで、地元の皆さんに役立つ郵便局として精勤させて頂いている。おわりに現在は民営化の影響で郵政省より郵便局会社として局は運営されているがこれからもユニバーサル事業の担い手となって皆様に愛される郵便局でありたいと祈念して筆を置く。 |
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