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ふるさと高田馬場 |
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小 西 忠 一安田商業学校 昭和17年(1942年) |
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東京人にはふるさとがないなどと言う人がいるが、そんなことは全くない。確かに、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という〈ふるさと〉はないが、私には立派にふるさとはある。私は現在八十九歳、ふるさとの地で楽しく暮らしている。私の生まれ育った頃の東京は中野、杉並、練馬など、ほとんどが畑と田んぼののどかな田園地帯だった。当時、私が生まれ小学校まで住んだ都の西北、高田馬場(昔の戸塚町源兵衛)は新婚さんが新居を構えるにはちょっと手がとどかなかったらしいが、東京のセンターに勤める勤め人のベッド地域だった。私の一家は親父が事業に失敗し家屋敷をとられ、この地を離れたが、戦後すぐ親父を説得しこの地にUターンして住んだ。戦後、日本の成長期、東京は公害で汚れ放題汚れ、東京をふるさととしない友人たちが「東京は汚い、川は臭いし、住むところではない」などと言うものだから「もともと吾がふるさとの東京は清潔で美しいところだ。君たちが来て汚くしたのだ。」と郷土愛の一端で言い返してやったことがある。 さて、私の子供時代の思い出だが、私の家は早稲田通りから北に神田川方面に少し入ったところの静かな横町にあった。小路を挟んだ前の家は、高村光雲さんの家で、今でも我が家に光雲さんの作った文鎮があるところを見ると、隣近所の交際があったらしい。 この横町には一軒モダンなアパートがあった。このアパートは江戸川乱歩がお妾さんにやらしているアパートで、「ここで乱歩は陰獣・黒蜥蜴とか怪人二十面相などの名作を書いていた」と、お袋が想像たくましくして言っていた。北に坂を下りて、面影橋、山吹の里、また神田川を渡り上りつめると、子母神だった。神田川に沿っては早稲田から王子電車が走っていた。これは、今も東京で一本だけ残っている路面電車の都営荒川線である。南に、今ほど広くない早稲田通りに出て高田馬場駅に向かうと、両側には、まだ商店は少なく、生け垣の家が連なり、前方のガードの上を四両編成くらいの山手線がトコトコと走っていた。西武鉄道は僅かな人間輸送以外に、入間川の砂利を東京へ運び、東京から肥料にする東京人の排泄物を西に運んでいた。 私のお宮参りと結婚式でお世話になった諏訪神社の南側は、一面いわゆる戸山が原、ここには日本陸軍の戸山学校、軍医学校、近衛師団と第一師団の騎兵連隊があり、子供らは兵隊の演習を遠くから見ていた。原っぱの一端に三角山と言う小高い山があり、ここはこの辺の餓鬼の集まり場所で私もよくここで遊んだ。 秋にはこれらの兵営では、子供たちにはうれしい軍旗祭があった。私は四、五歳か小さい時に兵隊の背中に乗ってパン食い競争に出た。小さかったのでぶら下がっている餡パンになかなか噛みつけなくて、他の子より大分おくれたが、私の兵隊さん、ものすごく足が速くて、みるみるうちに前の兵隊を抜いてしまい、一等賞になった。鉛筆と帳面を貰い、本当にうれしかった。 また、親父の実家が馬場下町なので、穴八幡、水稲荷も遊び場だった。穴八幡の早稲田大学第一高等学院側に大きな横穴があり、江戸城につながっていると言われ、入ったが、真っ暗なので怖くなり、引き返した。嘘か本当かわからぬが、深い気味の悪い洞窟だった。しかし、江戸時代には虫封じにここまで駕籠を連ねて将軍の若様達がやってきたというから、江戸城とは何らかの関係があったのかも知れない。昭和18年、学徒出陣前、慶應義塾大学小泉塾長が軍部、官僚を説得し開かれた「嗚呼最後の早慶戦」で有名になった早稲田大学の安部球場にも、よく潜り込み、野球の練習をみた。また何回か場外の草薮に潜り込み、やっとWのついた硬球を見つけ、宝物にした。 ふるさとの思い出は沢山ある。書けばきりがない。今では風景は一変し、昔の面影はないが、時々昔の思い出を辿りながら昔と同じところを歩き、親父やお袋のことを想い郷愁にひたる。ふるさとはいいもんだ。しかし、歩きながら、ここで直ぐ句が浮かんでくればいいのだが、なかなか。 * * * * 【編集者注記】この原稿の執筆者・小西忠一さんは、今年の九月二日に八十九歳で逝去されました。生前にお預かりした原稿を、ご遺族の承諾を得た上で、ここに掲載させていただいたものです。謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。 |
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安田喇叭鼓隊の思い出 |
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小 西 忠 一安田商業学校 昭和17年(1942年) |
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4年新年宴会は今年もにぎにぎしく、東京錦糸町の東武ホテルで開催された。開催の15分前から、会場では安田学園吹奏楽部が総勢30名(中学生14名、高校生16名)の編成で頬を紅潮させ、井田先生の指揮に合わせ華やかに颯爽と「汐風のマーチ」などの曲を奏でていた。 下記は安田学園吹奏楽部の嚆矢(こうし)ともいうべき安田喇叭鼓隊の物語である。 1941(昭和16)年、安田喇叭鼓隊は編成された。勿論喇叭鼓隊というから当然、小喇叭(トランペット相当─信号ラッパとは別音調)、中喇叭(トロンボーン相当)、大喇叭(チューバ相当)、それに小太鼓と大太鼓、シンバルの編成である。 隊員は20名(多い時は30名)、隊長は安田商業の4年D組の菊地芳雄、中喇叭は同級の私、小西忠一、大喇叭は私どもの1年下の前墨東支部長として同窓会に大いに貢献した故片桐君だった。喇叭鼓隊のできるまでには、次のようないきさつがある。 ある日、菊地君は教練のある時だけ、出入り出来る安田の銃器庫をのぞいた。何年前に誰が吹いたのか、古い軍隊喇叭が埃をかぶって薄暗い銃器庫の隅に2本ころがっていた。彼はこれに眼をつけた。「可哀そうだなー。誰にも顧みられることもなく、こんなところに長いこと転がされていて」。 彼は赤い房の埃を払い、うた口を服の袖で拭い、思わず口につけて、吹いてみた。スーという微かな音は出るが、喇叭の音は出ない。もう一度やりなおし。姿勢をただし、直立不動、力強く吹いてみた。鳴るではないか。喇叭は深い眠りから覚めた如く勢いよくプーという音をだした。こいつはいける。 彼は嬉しくなって、喇叭を持って通称寅さん、軍事教練の教官、後備の准尉さん加藤教官のところへ飛んで行った。「先生この喇叭使ってもいいですか?」「ああ、いいよ。」の返事。これから安田の喇叭ははじまった。 当時、中等学校、高等専門学校、大学にはすべて軍事教練があり必須科目だった。教官は日本陸軍から派遣された現役の将校で、その補助教官としては安田には加藤准尉と大川准尉がいた。加藤寅さんは商業、大川さんは工業を担当していた。 配属将校は私が入学した1938(昭和13)年ころはあまり戦争は激しくなく呑気だったのか、陸士出の大佐が派遣されていたが、3年生くらいになると職業軍人の士官は姿を見せず、学徒出の中尉に代わっていた。この中尉さん、戦争が厳しくなるにしたがって成績を上げたいのか、やけに生徒には厳しかった。それに引き替え、加藤准尉は生徒たちに慕われていた。 入学ほやほやの1年生には先ず不動の姿勢、「前へ進め、右向け右」などの号令で動く行進から始まるが、3年生からは銃を持たされての行進、匍匐前進、銃剣術等、嫌でも皆やらされた。 4年、5年になると学校内だけの教練だけではなく、しばしば、代々木の練兵場(今も広大なるNHKのある代々木公園)、習志野練兵場、下志津練兵場などに行き実地に野外教練を受け、最後には富士の裾野演習場の板妻廠舎に泊まり込みで実戦さながらの模擬戦争をさせられた。 さて、話を喇叭に戻すことにしよう。菊地君は銃器庫から持ち出した喇叭を使ったが、あまりよく鳴らないので、新しいのが欲しくなり加藤寅さんに新品をねだった。加藤寅さんは菊地君に軍事教練用に喇叭隊を作ることを条件に、新しい軍隊喇叭を数本買ってくれた。 ここで安田喇叭隊の活動が始まった。隊員には先ずいつも一緒に学校に通っている一番身近な私(小西)が狙われた。私は別に喇叭なんか吹かなくてもいいのだが、厳しい軍事教練が「喇叭を吹くことで少しは楽になれば」と当時としては甚だ怪しからん考えで喇叭隊に入ることにした。 そのあと同級の須崎、高井君が入ってきた。私は生来不器用で楽器などは触ったこともないのでなかなか音が出なかったが、後から来た須崎、高井両君はボーイスカウトで喇叭を手にしたことがあるらしく始めから上手だった。 ここに安田の屋上で震災記念堂を背にして、三八式歩兵銃(明治38年製の小銃で重い銃だった。真ん中にXで消されていたが菊のご紋章がついていた。)を肩にかけて軍隊喇叭を吹いている写真(添付)がある。右から小西、菊地、須崎、高井である。 この4人はいずれもD組だが、ABCD同年次の生徒の野外演習の時は、いつも喇叭手として起床、点呼、食事、消灯喇叭など吹いて行動していた。ト、テ、チ、テ、ター(ド、ソ、ド、ミ、ソー)、5音階、私はこのうちの一番高い音、このターには泣かされた。 冬の野外なんか寒いので、唇が振動しないのか、スースーいって吹いてもターーーーの音が出ない。特に消灯喇叭のチ、チ、チ、チ、チ、テ、チ、テ、ターーーー、この最後のターーーーの上がる音が曲者でこれが出ないと、「昼間の演習で疲れたろう。安らかな眠りにつけー」との、あの哀愁を帯びた「床(とこ)とって、小便(しょんべん)して寝えーーーー」の消灯喇叭が完全でない。 これでは、まことに間が抜けてしまい、誰にも咎められなかったが、恥ずかしいことおびただしかった。また軍事教練からの帰校の校門を入るときには、毎回、サーベル組(普通は品行方正の級長さん)の「歩調とれー」という号令を合図に全員ザックザックと足を高く上げ、勇ましく音を立てて校門に入って行く。その先頭に立って行進ラッパを吹くのが我々だ。 喇叭が全員の歩調に合うのか、歩調が喇叭に合うのかわからないが、これは喇叭手にとって至って気持ちがいい。この時だけは喇叭隊に入ってよかったと思ったが、普段は大変だった。 しかしクラスの口の悪い連中からは「ご苦労様」も言われないで、蔭で「あのスカスカ喇叭」などと悪口を言われていた。この喇叭隊が母体となり、安田喇叭鼓隊が生まれた。人数は先に述べたが20名。隊員は1年生から5年生まで含まれていた。当時、大学には陸海軍軍楽隊に倣って吹奏楽団もあったが、中等学校には喇叭鼓隊も少なく吹奏楽団は殆どなかった。 当時、全音階の出るトランペットやトロンボーンなどの吹奏楽器は目玉が飛び出すほど高いし、学校などでもなかなか揃えられるものでもなく、喇叭鼓隊を作るのでさえ大変な贅沢だったと思う。今考えると、あの戦時中、安田だからこそ出来たのであろう。 もともと喇叭鼓隊はフランスの軍隊から始まり、陸軍軍楽隊の生みの親である陸軍戸山学校軍楽隊が青少年の音楽活動の発展のためにフランスから導入したものであった。加藤教官の知人が戸山学校軍楽隊にいたため、その縁で安田で喇叭鼓隊を作ることになった。したがって編成当初には戸山学校から軍楽隊の隊員が来て指導をしてくれていた。 その後、この喇叭鼓隊は安田喇叭鼓隊現在の吹奏学部 2013年1月撮影安田喇らっぱ叭鼓こ隊たいの思い出大いに活躍した。1942(昭和17)年秋には、明治神宮競技場で開催された国民青年体育大会(現在の国民体育大会)の入場式に依頼されて我が校の喇叭鼓隊だけが入場行進の演奏をした。 また、同じ年、同じ神宮競技場を借り切って安田全校の運動会をやった時などには、今の安田の吹奏楽部が甲子園で野球の応援で演奏したごとく、同じように演奏し大いに気勢を上げた。これがはるか70年前にできた、今の安田吹奏学部のはじまりである。 しかし戦争が激しくなり、ついに敗戦、安田の横網校舎も長い間、駐留軍に接収され吹奏楽などではなかったのであろう。今の中高合同の吹奏楽部が出来たのは13年前だと聞く。また今年の新入生から安田学園は男女共学になると聞く。 冒頭から申し上げたごとく、この安田喇叭の古い歴史を顧みて、安田の吹奏楽部が男女共学で全日本吹奏楽コンクール高校の部などにおいて名を馳せるような吹奏楽部になるよう祈っている。 最後に、私の耳にはいまだに旧友の歩調をとって校門を入るザックザックという音が耳もとに聞こえ、また勇ましい彼らの姿が目に浮かぶ。しかし卒業後72 年、すでにD組65名の同級生は殆ど鬼籍に入り、今や存命中のものは12名、そのうち、ほとんどが病気持ちとなり、まことにさびしい限りだ。しかし、序ながら、この当時の安田卒業生はいろいろな分野で戦前戦後の厳しい時代を生き抜き、この日本の成長発展した今の国作りに貢献したとの誇りをもって生きてきたことを申し述べたい。 |
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